マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

主日礼拝の後、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。
次回: 6月18日

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
出張予定日: 7月12日
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
きょうの福音書は、復活したイエスさまが弟子たちと再会し、彼らに新しい命と使命を授ける劇的な瞬間が描かれています。4月12日の礼拝でも聞いた箇所ですが、きょうは別の視点から、イエスさまの体の性質、聖霊の意味、そして「遣わされる」ということの本質について解き明かしていきます。
まず、当時の状況ですが、弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。そこに、イエスさまが忽然と姿を現します。そして「真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」
(19)のです。
ここで注目すべきは、イエスさまの体の不思議な性質です。イエスさまはこの後トマスに「あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい」
(27)と言います。また、弟子たちの前で魚を食べる場面(ルカ24章)もあり、明らかに幽霊のような実体のない存在ではなく、肉体を持っています。しかし同時に、施錠された壁や扉を透過して現れるという、物理法則を超越した性質も示しています。
パウロはこれを「霊の体」と呼びました。これは「肉か霊か」という二択ではなく、神の次元に引き上げられた「新しい次元の肉体」です。
ここで聖霊を受けた私たちもイエスさまと同じ体になるのか、と問うなら、答えは「今はまだ、霊的な意味でのみ」です。私たちは聖霊を受けることで、内面においてはイエスさまの命に繋がっていますが、この肉体が「復活の体」に変容するのは、終わりの日の完成を待たねばなりません。今の私たちは、朽ちる体の中に「朽ちない命の保証(手付金)」として聖霊を宿している状態と言えるでしょう。
ところで、「イエスが来て真ん中に立ち」とあるのは、聖書学的な解釈や当時の文脈に照らせば、物理的な「家の中心」というよりも、「弟子たちの群れの中心」、すなわち彼らの信仰共同体(教会)の真ん中を指しています。これには、深い神学的な意味が込められています。その三つの「真ん中」を見ていきましょう。
一つ、恐怖の「輪」を打ち破る中心。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて」
(19)鍵をかけ、おそらく身を寄せ合うようにして座っていたはずです。彼らはリーダーを失った喪失感と、自分たちも捕まるのではないかという恐怖で、いわば「自分たちだけの閉じた輪」を作っていました。
イエスさまがその「真ん中」に立ったというのは、彼らが築いていた絶望の輪を断ち切り、その中心をイエスさまが奪還したことを意味します。
二つ、旧約聖書における「真ん中にいます神」の成就。旧約聖書において、神がご自分の民と共におられるとき、「民の真ん中に(イスラエルの中に)」という表現が繰り返されます。
民数記2章によると、荒野の幕屋(神の住まい)は、イスラエルの宿営の真ん中に配置されました。具体的には記されていませんが、出エジプト記40章からも、幕屋が中心であることが読み取れます。また、ゼファニヤ書には、「イスラエルの王なる主はお前
(民全体)の中におられる」
(3章15)とあります。
ヨハネによる福音書は、イエスさまがまさに旧約で約束された「神の臨在(インマヌエル)」そのものであることを強調しています。弟子たちの真ん中に立つ姿は、「これからは、このイエスこそがあなたたちの命の中心、信仰共同体(教会)の軸である」という宣言なのです。
三つ、礼拝の原型としての「真ん中」。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
(マタイ18章20)という言葉どおり、この場面はキリスト教における礼拝の原型とも言われています。
弟子たちが集まり、そこに復活した主(イエスさま)が来られ、平和(シャローム)を告げ、御言葉を語る。このとき、主は部屋の片隅にゲストとして座るのではなく、すべての弟子たちの視線が集まる中心に立たれました。これは、今日に至るまでの教会のあり方を示唆しています。
これらで分かるように、イエスさまは、「弟子たち一人ひとりから等しい距離にあり、全員と向かい合うことができる場所」に立ったのです。
それは、弟子たちの間にあった「気まずさ」や「恐怖」をかき消し、再び彼らを一つに結びつけるための「要(かなめ)」としての立ち位置でした。扉を閉ざして孤立していた彼らにとって、自分たちの真ん中に主が立たれたことは、世界が再び秩序を取り戻した瞬間だったと言えるでしょう。
次に、「息を吹きかける」という象徴的な行為について深掘りしましょう。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」
(22)。
これは創世記2章7節で、神が土の塵で形作った人の鼻に「命の息」を吹き入れた場面を強く意識しています。
ここで「神は最初に霊を与えたのに、人はそれを失ったのか」という疑問が生じます。聖書的な理解では、最初の人間アダムに吹き込まれた息は、生物的な命(ネフェシュ)であると同時に、神との交流を可能にする霊的な権能も含んでいました。しかし、罪によってその神との絆が断絶したとき、人間は「霊的に死んだ状態」になったと考えられます。
イエスさまがここで弟子たちに息を吹きかけたのは、単なる「補完」以上の意味があります。それは「新しい創造(再創造)」です。創世記の息は自然の命の始まりであり、ヨハネ20章の息は罪と死に勝利した「永遠の命」の始まりです。
神が最初に与えた霊を人が失ったというよりは、「イエスさまという真の人間を通して、初めて完成された形の霊が人類に注がれた」と捉えるのが適切です。イエスさまの息は、アダムが失ったものを修復するだけでなく、アダムさえも持っていなかった「キリストの復活の命」へと人間を更新させるものなのです。
最後は、赦しの権能についてです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが残せば、その罪は残る」
(23)。
この言葉から私たちは、弟子たちがヨハネ8章15節で批判された「肉に従った裁き(人間的な基準での裁き)」をする可能性に思い当たります。
しかし、この権能は「弟子たち個人の判断力」とではなく、直前の「聖霊を受けなさい」という言葉とセットになっていることが決定的に重要です。
一つめの前提、聖霊の導き。罪を赦す・残すという判断は、聖霊に満たされた教会が、神の御心を代弁する場合にのみ有効です。
二つめの前提、福音の提示。実質的にこれは、「イエス・キリストによる救いを受け入れるなら罪は赦され、拒むなら罪の中に留まる」という真理を宣言する使命を指しています。
弟子たちが「肉の裁き」をする危険性は、歴史が証明しているとおり、常にあります。しかし、本来の意味における「罪を留める」とは、相手を憎んで突き放すことではなく、「あなたは今、神から離れた危険な状態にあります」と真実を告げる、愛の警告なのです。ですから、弟子たちが、「神がすでに赦そうとしていることを告げ知らせる窓口」になった、と理解するのが福音的です。
きょうの聖書箇所は、イエスさまの勝利が弟子たちのものとなり、それが世界へと広がっていく転換点です。三つのキーワードでふり返りましょう。
平和の挨拶: 絶望していた弟子たちに、まず「平和(シャローム)」が与えられました。
新しい命: 復活の主の息によって、彼らは霊的に生まれ変わりました。
世界への派遣: そして、イエスさまと同じ権威と聖霊を持って、世界へと押し出されました。
私たちは、鍵のかかった部屋に閉じこもる弟子のような弱さを持っています。しかし、復活の主は壁を越えて私たちの真ん中に立ち、今も息を吹きかけておられます。その息は、私たちが「肉に従って裁く」古い自分を脱ぎ捨て、神の愛を体現するイエスさまと一つになって歩むための力なのです。
この「聖霊の息吹」を、今、あなたも受け取ってください。主イエスさまはあなたを、ご自身の愛の代理人として、この世界へ遣わそうとしているのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子はあなたの意を請けて、飢え渇く私たちが無償で生ける命の泉である聖霊の注ぎを受けられると招いてくださいます。この福音に私たちの心を開き、新しい命に生まれ変わることができますように。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン