杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

直近の礼拝式

集会予定
7月19日(日) 10時30分
聖霊降臨後第8主日
マタイ13章24~30, 36~43 畑の主人と二つの種
聖餐あり
7月26日(日) 10時30分
聖霊降臨後第9主日
マタイ13章31~33, 44~52 「天の国」のたとえ

夕礼拝について

お知らせ

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。

次回予定: 7月16日

読書会について(変更)

お知らせ

主日礼拝後の読書会について、開催を第3日曜日のみに変更いたします。会員主導で30分程度、課題図書はひきつづき三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

次回予定: 7月19日

牧師不在の礼拝式について

お知らせ

杉並聖真ルーテル教会の責任教職は、飯能ルーテル教会の責任教職を兼務しており、奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張します。そのため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

次回予定: 9月13日

福音の真理にのっとる歩み

説教

11さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 12なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 13そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 14しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

1. ケファとペトロ

ガラテヤの信徒への手紙の中でも、とくにこの2章11節から14節の記述は、初代教会の緊張感と、パウロの揺るぎない福音観が最も鋭く現れている箇所の一つです。ここでは、アンティオキア(シリア州の首府)で起きた「ある出来事」を通じて、キリスト者の生き方が問われています。

まず、ケファは、7-8節のペトロと同一人物です。「ケファ」はアラム語で「岩」を意味し、ギリシア語訳が「ペトロ」です。彼の本名はシメオン(使徒15章14)ないしシモン(マルコ1章16)でしたが、イエスさまは「ケファ」という呼び名を与えました。ギリシア語圏に宣教が広がり、「この岩の上にわたしの教会を建てる」というマタイ16章13-20が記された頃には、すっかり「ペトロ」が定着していたのです。

パウロがここでわざわざ「ケファ」というアラム語の名前を用いているのは、彼が「エルサレムの有力者」(使徒1章13,2章14)という権威的な立場にいることを強調し、その重みと矛盾を浮き彫りにするためと考えられます。

2.二つの教会――ケファとヤコブの立ち位置

当時の教会は、一枚岩ではありませんでした。特に「ケファ(ペトロ)を中心とするグループ」と「主の兄弟ヤコブ」を中心とするグループ」は、ともに「キリストを信じる」という点では一致していますが、「律法と信仰をどう調整するか」という点において、微妙な温度差があったのです。

ケファの教会は、十二使徒の筆頭であるペトロを中心に、エルサレムの教会の指導的役割を担っていました。彼らの根底にはユダヤ教の伝統があり、異邦人伝道にも理解を示していましたが、一方で「律法の遵守」というユダヤ的信仰基盤を完全には手放せない層が一定数存在していました。

ヤコブの教会では、より厳格にユダヤ的伝統を守る傾向が強かったようです。彼らにとって、キリスト教は旧約聖書および律法の完成であり、異邦人が救われるためには、何らかの形で律法(割礼などの規範)に従うことが望ましいと考えられていました。

この温度差が、アンティオキアの食卓で噴出することになります。

3. なぜパウロはケファの「体面」を傷つけたのか

パウロは、ケファが異邦人の信徒たちと食事を共にしていたのに、ヤコブの使者がやってくると急に距離を置いたことを厳しく批判しました。パウロが教会のリーダーであるケファを皆の前で叱責したのは、その行為が教会の土台である「福音の真理」を根底から突き崩すものだったからです。

パウロにとって、福音とは「律法の行いによってではなく、キリストへの信仰によってのみ人は義とされる」という恵みの教えです。ケファがヤコブの使者を恐れて「ユダヤ人だけと食事をする」という行動をとったことは、裏を返せば「ユダヤ的な律法を守ることこそが、神の前で誇るべき正しい行いである」ということを異邦人に送るに等しい行為でした。

これをパウロは黙認できませんでした。もしここで沈黙すれば、キリストの死の意味が、単なる律法の一条項へと矮小化されてしまうからです。この叱責は、ケファ個人の名誉を傷つけるためではなく、福音の純粋性を守るための、苦渋に満ちた決断でした。

4. パウロの教会――「開かれた食卓」の共同体

パウロが主導する教会は、それまでのユダヤ教的枠組みを根本から覆すものでした。パウロの教会は、都市部に暮らす異邦人(非ユダヤ人)を中心に形成されていました。彼らの社会的背景は実に多様で、奴隷や解放奴隷、中産階級の商工民、さらには地位のある女性も含まれていました。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3章28)というパウロの有名な言葉は、単なる理想論ではなく、彼らの教会がいかに社会的・民族的境界線を乗り越えていたかを物語っています。

パウロの教会における最大の行動規範は、「律法を守ること」ではなく「キリストへの信頼(信仰)」を公にすることでした。彼らは、割礼や食事規定(ユダヤ教の清浄規定)といった「外見的なしるし」を必要としない新しい生活様式を選択しました。これは当時の地中海世界の慣習からすれば、非常に大胆で、しばしば周囲からの誤解や敵視を招くものでした。パウロはこれを「キリストの体」(ローマ12章5,1コリント12章27,他)としての教会と呼び、一人ひとりが自分に与えられた恵みの賜物(能力)を用いて互いに仕え合うことを求めました。

ですから、パウロの教会とエルサレムの指導者たち(ケファ・ヤコブ派)の関係は、一言で言えば「緊張を孕んだ共生」でした。

パウロは、エルサレム派が重視する「ユダヤ的な律法遵守(割礼など)」を、異邦人に対してまで強制することを福音の変質であると見て、厳しく批判しました。しかし同時に、エルサレム教会の貧しい人々のために「献金」を集める活動を熱心に行いました。これは、教理的な激論があっても、キリストという中心において一つであるという繋がりを、目に見える形で示そうとするパウロの苦渋の外交術でもありました。

5. 「見せかけの行い」とは

パウロが指摘した「見せかけの行い」(13)とは、自分の内面にある確信と、外部からのプレッシャーによって、とる行動が一致しない状態を指します。

ケファの振舞いが非難されるべき理由は、「人からの評価」を「真理」よりも上位に置く行為だからです。私たちはしばしば、神との関係よりも、社会の評価やグループ内での立ち位置を優先してしまいます。パウロが厳しくこれを戒めたのは、そうした「世俗への迎合」が、信仰の本質を侵食してしまうからです。

パウロがケファに対してこれほど厳しかったのは、アンティオキアでの妥協が、自らが育てた異邦人教会の存在意義を根底から否定する行為だったからでもあります。パウロにとっての「真理」とは、キリストがユダヤ人と異邦人の間の壁を打ち砕いたという事実そのものでした。その事実を、世俗的な「顔色」によって覆い隠すことは、キリストの十字架を無効にする行為に他ならなかったのです。

6. 「真理にのっとってまっすぐ歩く」とは――パウロの闘い

ルターは、このパウロの闘いに強く共鳴しました。そして、パウロがケファを叱責したこの場面を、「制度や権威が、いかにして福音の光を消し去るか」という警告として捉え、「個人の人格攻撃ではなく、福音の純粋性を守るための神学的な防衛線」であると位置づけました。また、これを「信仰の自由」の守護として強調しています。彼にとって、まっすぐ歩くとは、どんな権威や世間の風潮に対しても、福音という一本の軸を曲げないことを意味しました。

では、私たちはどうすれば「真理にのっとってまっすぐ歩く」(14)ことができるのでしょうか。「線引きせず隣人を受け入れ」、「一貫した誠実さ」と「批判を恐れない誠実さ」を持つ。これらを意識することが、現代の複雑な社会でこの教訓を活かす、現実的な指針となります。自分の信念が、もし真理に基づいているならば、一時的に誰かから批判されたり、距離を置かれたりしても、その道を歩み続ける。それが「まっすぐ歩く」ということの重さです。人からの評価に対する恐れを手放しましょう。どう思われても、それは歩むべき道の一部であるとして受け入れる姿勢を保つのです。

7. 結び

パウロがケファを叱責した事件は、一見すると不穏で悲しい出来事に思えます。しかし、この衝突があったからこそ、教会は「ユダヤ人のための宗教」の枠を完全に脱ぎ捨て、世界に開かれた福音へと脱皮することができました。

ルターが後の宗教改革において、教会制度の腐敗に対して命がけで抗ったのも、このパウロの姿勢に強く共鳴したからです。

あなたは今、他人の顔色ではなく、福音の真理を見つめて歩もうとしていますか。この問いこそが、二千年経った今も、ガラテヤ書が私たちに投げかける「福音への挑戦」です。パウロの激しい筆致は、私たちの内なる「見せかけの自分」に対して、今も鋭いメスを入れ続けているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子イエスさまの贖いを通して、すべての人に分け隔てなく救いの道を開いてくださいました。わたしたちがその福音の真理にのっとった歩みを生き通すことができますよう恵みをもって守り導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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