マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。
次回: 5月21日

主日礼拝の後、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
出張予定日: 7月12日
44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。 49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
ルカによる福音書は、非常に不思議な終わり方をします。主であるイエスさまが去っていくのに、残された弟子たちは悲しみに沈むどころか、喜び勇んで神殿へと向かいます。この「逆転の結末」には、私たちの人生を根底から支える重要な鍵が隠されています。きょうは、イエスさまが最後に語られた言葉と、その背後にある深い意味を、一つひとつ解き明かしていきましょう。
まず、イエスさまが最初に行ったのは、弟子たちの「心の目を開」
(45)くことでした。彼らは三年間イエスさまと寝食を共にし、奇跡を目の当たりにしてきたにに、いまだ、イエスさまの「苦しみと復活」という出来事を、自分たちの信仰の中に正しく位置づけることができていません。
イエスさまはここで、モーセの律法、預言者の書、詩編という、当時の聖書の全区分を挙げて説明します。これは「聖書のどこを切り取っても、実はわたしのことを指し示している」という宣言です。私たちは、聖書を自分に都合の良い「格言集」のように読んでしまいがちですが、イエスさまが求めたのは、歴史全体を貫く神の救いの計画として聖書を理解することでした。この「心の目を開かれる」という体験こそが、単なる知識としての聖書を、生きた希望へと変える出発点なのです。
さて、47節は「ユダヤ人以外の人々までもが救われる」ことを教えていますが、これはイエスさまが突然始めた「新しい計画」ではありません。旧約の物語の主役はイスラエルの民ですが、実はその底流には、常にこの「全人類の救い」という神の壮大な計画がありました。
例えば、イスラエル民族の父アブラハムが選ばれたとき、神は「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」
(創世記12章3)と約束しました。イスラエルが「選ばれた」のは、彼らだけを救うためではなく、彼らを先行事例(祭司の国)として、世界中の人々を神の元へ招き入れるためだったのです。
預言者イザヤも「救いが地の果てまで及ぶように、わたしはあなたを諸国の民の光とする」
(49章6)という神の言葉を伝えています。また、詩編117編でも「すべての国々よ、主を賛美せよ」
と、全人類が神の前に集う未来が繰り返し歌われています。
当時の多くの人々は、自分たちを苦しめる外国を「裁く神」を期待していました。しかしイエスさまは、聖書の本来の意図は「敵対する国々も含めたすべての人の罪を赦すこと」にあると断言しました。この普遍性こそが、キリスト教が国境を越えて広がった最大の理由なのです。
イエスさまは、弟子たちに「都(エルサレム)にとどまって、高い所からの力を待ち続けなさい」と命じました。この「高い所からの力」
(49)とは、五旬節(ペンテコステ)に降る「聖霊」を指します。ここで「力に覆われる」
(同)という表現は、ギリシア語で「服を着せられる」という意味の言葉が使われています。
この力は、単にやる気が出るとか、奇跡が起こせるといった一時的な高揚感ではありません。それは、人間を内側から包み込み、神の性質の被膜で覆うような力を指します。
なぜ「高い」所からなのか。それは、この力がこの世の因果応報や、人間の努力の限界という「低い次元」の産物ではないからです。「高い」とは、神の絶対的な支配、死さえも無効化する天の権威を象徴しています。
弟子たちは、自分たちの知恵や勇気で福音を伝えに行くのではありません。神の住まう「高い所」から注がれる動力源を、まるで重厚な防具を身にまとうようにして受け取るのです。私たちの弱さを補って余りある、神の超自然的な後方支援。それが「高い所からの力」の正体です。
次に、「祝福」
(50)の意味について深く掘り下げてみましょう。
旧約聖書において、祝福の原初的なイメージは、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」
(創世記1章22,28)という生命力の爆発でした。家畜が増え、子孫が繁栄し、土地が豊かになること。それは目に見える「神の恵み」の証拠でした。
しかし、イエスさまが去り際に与えた祝福は、単なる「数の増加」や「物質的な豊かさ」を超えたものです。
イエスさまは両手を挙げて弟子たちを祝福しました。これは、大祭司が民のために神の平和を祈る姿そのものです。ここでの祝福の本質は、「神との関係が完全に修復されたという平安」です。
旧約の祝福が「この世での生の肯定」であるなら、イエスさまの祝福は「この世の終わりさえも恐れない新しい命の肯定」です。たとえ迫害の中にいても、たとえ貧しくても、神との絆が断たれることはない。この「絶対的な安心感」こそが、イエスさまが弟子たちに残した最大の賜物でした。
ですから、イエスさまの祝福は旧約の祝福を否定したのではなく、目に見える豊かさという「器」の中に、永遠の命という「中身」を満たして完成させたのです。
イエスさまは弟子たちを「これらのことの証人」
(48)と呼びました。証人(ギ: マルテュス)という言葉は、後に殉教者(英: martyr マーター)という言葉の語源になります。
証人とは、自分の「意見」を述べる人ではありません。「自分が見たこと、体験したこと」をありのままに語る人のことです。弟子たちは、イエスさまの死と復活、そして自分たちの心が変えられたという「事実」の目撃証人となりました。
彼らがエルサレムにとどまったのは、ただ待機していたわけではありません。そこで「高い所からの力」を受け、自分たちの内側にある弱さや疑いを焼き尽くしてもらう必要があったのです。
証人として生きる力は、自分の中から絞り出すものではなく、外側(高い所)から与えられるもの。これを間違えないことが、福音を伝える上での要件です。
福音書の最後、弟子たちは「絶えず神殿の境内にいて神を賛美していた」
(53)と記されています。実はここに、ルカによる福音書の見事な伏線回収があります。
この福音書の冒頭、祭司ザカリア(洗礼者ヨハネの父)が神殿で御告げを聞いたとき、彼は信じることができずに言葉を失い、黙ったまま神殿を後にしました。しかし最後、弟子たちは溢れる喜びの中で、言葉を尽くして神を賛美しながら神殿にいます。
絶望から始まった物語が、最高の賛美で終わる。これは、神の救いの計画が、イスラエルの中心地である神殿において「完成した」ことを示しています。古い制度としての神殿は、イエス・キリストという真の神殿によって新しい意味を与えられ、そこから世界中へと福音が流れ出す出発点となったのです。
ルカ福音書の最後のシーンを想像してみてください。イエスさまは、弟子たちを「祝福しながら」
(51)離れていきました。つまり、弟子たちの視界から消えるその最後の瞬間まで、イエスさまの両手は彼らに向かって広げられ、祝福の言葉が生みだされていたのです。
私たちは時として、神が遠くにいて、自分を見捨てているように感じることがあります。しかし、この福音書の結末が教えてくれるのは、イエスさまは「背を向けて去った」のではなく、「祝福のポーズのまま、天の統治の座に着かれた」ということです。
天に上げられたイエスさまは、今や時間と空間の制約を超えて、あらゆる場所、あらゆる時代にいる私たちのために、祝福の手を広げ続けておられます。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は私たちを救う務めを成し遂げて御許に戻りましたが、あなたは代わりに聖霊を送って、私たちを助け導いてくださいます。共に礼拝に集う私たちの心を開き、燃やし、御心に従って歩む者としてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン