マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、飯能ルーテル教会の責任教職も兼務しており、奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張します。そのため、当日の杉並教会の礼拝式は、信徒のみで守ります。
3月8日(予定)
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。」
今日のみ言葉は、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」
(1‐2)と始まります。ここは原文では、イエスは口を開き、「彼らに」教えられた。つまり近くに寄って来た「弟子たち」に教えられた、と書かれています。
もちろん、そこには群衆もいました。今日の箇所の直前には「大勢の群衆が来てイエスに従った」
(4章25)と書かれています。この大群衆を見て、イエスさまは山に登られたのです。群衆も付いていったことでしょう。しかし、そこでイエスさまは群衆全体にではなくて、近くに寄って来た弟子たちに語ったのです。それがこの5章から7章の「山上の説教」です。
ですから、そこに二重の輪ができたのです。内側にはイエスさまの語りかけを自分自身に対する語りかけとして聞いている弟子たちが、外側にはそれを外から見ている群衆がいます。彼らはイエスさまが弟子たちに語りかけるのを外から見て、その「教え」について評価します。その評価は、山上の説教の最後にこう書かれています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」
(7章28)。
では、私たちはどちらの輪にいるのでしょうか。外側の輪から第三者としてイエスさまと内側の輪を見て、評価して、それで終わり、ということも起こり得ます。しかし、この記事は、自分を群衆の立場に置いて読むのではなく、内側の輪に入って、私たち自身への語りかけとして、イエスさまの説教を聞くことを期待して書かれているのです。
今日読まれたイエスさまの第一声は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」
(3)という言葉でした。
イエスさまのこの言葉は文語訳聖書では、「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。」
となっていました。この方が原文に忠実です。イエスさまの言葉は「幸いなるかな」という叫びから始まります。聞いている者たちに「あなたたちはなんて幸せなのだ」と言うのです。この言葉を自分自身への語りかけとして聞きたいと思います。
イエスさまは私たちに対して「幸いなるかな」と言った上で、さらに私たちを「心の貧しき者」と呼びました。一度聞いたら忘れられない強烈な言葉です。それはその場で直接この言葉を耳にした人にしても同じだったろうと思います。むしろ私たちが考える以上に衝撃が強かったはずです。というのも、ここで言われている「貧しさ」というのは、あと少しでもあれば満足できるという程度ではなく、「物乞い」と訳すのがふさわしいまでの貧しさを意味する言葉なのです。そのような極度の貧しさと「幸いなるかな」という叫びは、どう考えても結びつきません。
しかも、ルカによる福音書には「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6章20)とあるものを、イエスさまはここで「心の」貧しい人々と言っているのです。この「心」は一般的には「霊」と訳される言葉です。それは人間存在の最も深い本質的部分を指しています。心の貧しい人々は、ただ物質的に困窮しているだけではなく、その「霊」において貧しい、本質的に根源的に「貧しい人々」なのです。
そこで私たちはまず私たちの「貧しさ」に目を向けなくてはなりません。そもそも私たちは本質的に根源的に貧しいのでしょうか。ここで言う「貧しさ」を知るためには、逆に自分にこう問う方が良いでしょう。私たちは貧しくないと言えるだけのもの、間違いなく自分のものといえるものを持っているか。持っているとするならば、それはいったい何か、と。
それが財産であれ、健康であれ、愛する人であれ、自分に属するものが失われる時、それは私たちの意志とは無関係に失われることを私たちは知っています。本質的には何一つ私たちの支配下にはないということです。言い換えるならば、本当の意味で私たちが所有するものは何一つないということです。
実際、自分の「命」ほど、「これは私のものだ」と思いたいものはないでしょう。「私のもの」と主張したい。他の誰の手にも渡したくない。しっかりと自分の手で握りしめていたい。最後まで自分の思い通りになるものであって欲しい。それが「命」です。ですが、実際にはどうでしょう。この世における「命」、この世における人生、どちらも決して思い通りにはなりません。自分の「命」ですら、本当は「私のもの」ではないのです。
その一方で、私たちが確実に持っているものがあります。何でしょう。私たちに本質的に属するのは「罪」と「死」です。
私たちが人に対して負っている「負い目」、そして神に対して負っている「負い目」は、間違いなく「私たち自身」が人生において行ってきたことに由来します。それは間違いなく私たち自身の「罪」であり、私たちが神の御前において支払うべき負債であって、それは間違いなく「私たちのもの」です。
そして、「死」もまた「私たちのもの」です。「死」は未来のどこかにあるのではありません。私たちは常に死を背負いながら生きています。ですから、誕生した時から私たちは常に「死につつある」存在なのです。
そのように、私たちが確実に持っているのは「罪」と「死」だけだと言うことができます、先ほどの問いの答えがこれです。いわば借用証書だけを所有しているようなものです。それは本質的、根源的な貧しさです。その根源的な貧しさの中から、ただ「憐れんでください」と叫ぶしかない。物乞いがそうするように、神に向かって「憐れんでください」と叫ぶしかない。救ってもらうしかない。それが聖書の教える私たち人間の現実なのです。
しかし、この貧しい者、憐れんでもらうしかない、救ってもらうしかない者である弟子たちは、イエスさまのもとにたどり着きました。私たちもまた、こうしてイエスさまのもとにたどり着きました。そして、イエスさまの弟子として、イエスさまの語りかけを自分自身への語りかけとして聞いて生きていこうとしているのです。心の貧しい弟子たちに対して、そして同じく心の貧しい私たちに対して、イエスさまは言われるのです。「幸いなるかな」と。
なぜ幸いなのでしょうか。イエスさまはこう続けます。「天の国はその人たちのものである」。貧しいならば与えてもらうしかありません。憐れんでもらうしかありません。救ってもらうしかありません。しかし、それが幸いなのです。なぜなら「天の国はその人たちのものである」と宣言することのできる御方のもとにいるからです。天の国とは神の救い、神による完全な救いです。イエスさまはこの救いを宣言します。なぜなら、イエスさまこそがこの救いを与えるために来た御方だからです。
ここで「幸いなるかな」と叫ぶ御方について、使徒パウロはコリントの教会に宛てて書いた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」
(2コリント8章9)。
豊かであった主イエス・キリストが貧しくなりました。罪の負債のない御方が、私たちの負債を肩代わりしました。死に支配されない御方が私たちの死を引き受けました。このような仕方で自分をこの世の誰よりも卑しいものとしたイエスさまが、私たちを貧しさの極みから救いました。天の国から限りなく遠かった私たちに、天の国を与えたのです。
「天の国はその人たちのものである」と主イエス・キリストは言いました。「天の国はいつかその人たちのものとなるだろう」と言ったのではありません。内側の輪の弟子たちは、また私たちは、キリストのもとにあって、既に「幸いなるかな」という宣言を聞いているのです。天の国は既に私たちのものです。既に天の国の生活が始まっているのです。キリストのもとにあって救われた者として神と共に生きる生活が、既に始まっているのです。外の輪から眺めるのではなく、今、主の言葉を私たち自身への語りかけとして聞いた私たちにとって、これは私たちに向けられた祝福です。ともに聞き、ともに喜びましょう。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は彼らのものである」。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子は人としての正しい生き方を端的な言葉で示してくださいました。私たちが聞くべき耳を持ち、御子の導きに委ねて生きてゆけますように、あなたの聖霊をお遣わしください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
(与えられた箇所は1~12節ですが、今回の説教は1~3節に焦点を絞りました。この3節の言葉は、「幸いの言葉」全体のいわば表題の位置を占め、イエスさまが語られた「御国の福音」の根本精神を表現する標語としての役割りを持っています。)