マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。
16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
厳しい陽光が照りつける正午、旅に疲れたイエスさまは、サマリアで井戸のそばに腰を下ろしました。当時、ユダヤ人がサマリアを通ること自体が異例でした。しかし、イエスさまは「サマリアを通らねばならなかった」
(4)のです。神の計画による出会いが待っていたからです。
イエスさまは、水を汲みに来たサマリアの女性に「水を飲ませてください」
(7)と声をかけました。これはあってはならないことです。断絶したユダヤ人とサマリア人という「民族の壁」、男性が公に面識のない女性に話しかける「性別の壁」、汚れた者とされるサマリア人から物を受け取る「宗教の壁」。しかしイエスさまは、これらの壁を飛び越え、彼女に「生きた水」の存在を示します。彼女が「その水をください」
(15)と願うと、イエスさまは無関係と思える言葉を返しました。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」
(16)。彼女の答えは短く拒絶的でした。「わたしには夫はいません」
(17)。イエスさまは、彼女の全人生を見透かして言います。「まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」
(17-18)。
彼女の足跡と痛みが白日の下にさらされました。五人の夫と別れ、六人目と同棲している。これは到底容認されない不名誉な事実で、彼女は共同体から閉め出されていたのです。彼女があえて誰も井戸に来ない時間帯を選んで水を汲みに来ていたのは、人々の軽蔑に満ちた視線、背後で囁かれる悪口から逃れるためでした。彼女にとって、井戸の静寂は深い孤独の証明です。
彼女は愛に「渇いて」います。愛されることに執着し、愛する視点を失っているのです。相手からの承認を求め依存し、理想の愛が得られないと関係を断つ。彼女の抱える闇は、人間の根源的な「愛への自己中心性」そのものです。
イエスさまが最初に「水を飲ませてください」と頼んだこの一言には、深い慈愛が込められています。社会から拒絶され、「自分は誰の役にも立たない」と思い込んでいた彼女にとって、他者から何かを頼まれるという経験は、失われていた人間としての尊厳を取り戻す機会となりました。イエスさまは、彼女を「教え諭すべき罪人」としてではなく、「自分を助けてくれる一人の人間」として扱われたのです。この小さな承認が、彼女の澱んでいた心の底を揺り動かし、新しい生き方への扉を開けるきっかけとなりました。
「ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」
(15)という彼女の願いは、単なる家事の負担軽減を求めたものではありませんでした。「もう隠れて生きなくていいように」「人目を恐れず、胸を張って生きられるように」。そんな魂の叫びが、この言葉には込められていたのです。
イエスさまが「夫を呼んで来なさい」と言ったのは、彼女を恥じ入らせるためでも、罪を責めるためでもありません。「生きた水」を受けるには、まず自分の中の「濁った水(罪)」の存在を認め、それを神の前に提示する必要があるのです。罪とは、神から離れ、自分の力だけで渇きを癒そうともがく状態を指します。イエスさまは、彼女の人生の最大の問題である「夫(人間関係)」の話題に切り込むことで、彼女の魂の乾きがどこから来ているのかを明確にされました。罪の露呈は、赦しの始まりです。イエスさまが十字架で代わって背負うための「確認」です。そこから初めて、本当の意味での救いと解放が始まるのです。
イエスさまを「預言者」だと認めた彼女は、「礼拝の場所」について問いかけます。「わたしどもの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたはエルサレムだと言っています」
(20)。どちらが正しいのですか。これは、不都合な私生活から話題を逸らそうとしたのではなく、彼女の絶体絶命の叫びでした。数百年続く宗教的対立は、彼女にとって単なる教義の争いではありません。人間関係に破れ、愛に絶望した彼女が行き着いた、「自分のような罪人が、どこに行けば神と繋がれるのか」という切実な問いなのです。人間との愛に破れた彼女は、無意識のうちに「神との愛の関係」(礼拝)を渇望していたのです。
イエスさまは驚くべき答えを返されます。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」
(21)。
これは解放宣言です。まことの礼拝とは、特定の場所に行く形式的な儀式ではなく、神を「父」と呼び、その無限の愛の中に留まるという「人格的な関係」そのものです。私たちが他者に愛を求めすぎて苦しむのは、心の中心にある愛の器が空だからです。しかし、神に愛されているという確信(礼拝)があれば、「愛されることを求めすぎる自分」から解放されます。神との縦の愛が回復して初めて、人間との横の愛も穏やに、かつ健やかになるのです。
イエスさまはさらに踏み込みます。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」
(23)。
「今」とは、救い主であるキリストが目の前に立っている時を指します。礼拝に必要なのは、「霊(聖霊)」と「真理(キリスト)」です。人間の努力や心構えではなく、神から与えられる聖霊の働きによって、自分の都合の良い神を作るのではなく、キリストという真実の光に照らされて、まことの礼拝がなされるのです。
彼女が探し求める「渇かない水」は、まさにこの「キリストを通して神と結ばれる」喜びでした。自分を汚れた者だと責める「過去の事実」ではなく、神が自分を愛しているという「福音の真実」に生きること。それが霊と真理による礼拝の本質です。また、神を父として礼拝する喜びを知る者は、人生のどのような局面でも、内側から湧き上がる喜びと平安を失いません。それが「永遠の命に至る水」の正体なのです。
この対話の結末は劇的です。彼女は「水がめをそこに置いたまま」
(28)、町へと走っていきました。彼女にとって水がめは、生きるために不可欠な道具であると同時に、毎日「渇き」を思い知らされる労苦の象徴であり、人目を避けて生きる生活の象徴でした。その水がめが置き去りになったのは、彼女が「古い自分」を脱ぎ捨て、主イエスが与える新しい命に満たされたことを物語っています。
かつては人々の目を避けていた彼女が、自ら町の人々の中へ飛び込み、叫びます。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」
(29)。彼女はもはや「隠れて生きる罪人」ではなく、救い主を伝える「証し人」です。自分の闇を知った上で愛してくださる方に出会った喜びが、彼女を孤独の檻から連れ出したのです。
イエスさまは、私たちが抱えている孤独、失敗、誰にも言えない闇、それらをすべてご存知の上で、私たちに「生きた水」を差し出し、「父なる神との交わり」へと招いています。サマリアの女性がありのままを語ったように、自分の弱さと渇きを認め、イエスさまの前に示すとき、救いの業が始まります。神を父と呼び、その愛に潤されて歩む「まことの礼拝」へと、私たちは招かれているのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまの十字架の血により清められ、聖霊を注がれて、いのちの源であるあなたと再び結ばれた幸いを感謝します。日々あなたと共に歩む私たちの旅路を導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
(この説教の範囲は、16-30節に限定しました)