マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。
杉並聖真ルーテル教会の責任教職は、飯能ルーテル教会の責任教職を兼務しており、奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張します。そのため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
次回予定: 9月13日
24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
きょうの「毒麦のたとえ」は、神の支配がこの罪深い世界においてどのように働き、完成へと向かっているのかを解き明かす、福音の核心に触れる物語です。麦と毒麦が共に育つというこの不思議な光景は、一見すると神の無策や妥協のように見えるかもしれません。しかし、そこにこそ、わたしたち一人ひとりを愛し、守り抜こうとする神の、驚くべき忍耐と救いの意志が隠されています。
まず、このたとえの「良い種を畑に蒔いた」
(24)人とは、イエス・キリスト(人の子)を指しています。神がご自分の造った世界という畑に、御国の子らという「良い種」を蒔きました。ここで注目すべき点は、主人が僕(しもべ)に命じるのではなく、自ら蒔いたということです。これは、神の愛が、管理職的な命令ではなく、自らが手を汚して種を蒔くような、情熱的な関わりであることを示しています。
一方、収穫の時が来た時に働いているのは「刈り取る者たち」、すなわち天使です。主人が刈り取る者たちに命じていますから、この物語の支配権は完全に主人の手の中にあります。わたしたち人間は、誰が麦で誰が毒麦かを見極める知恵も資格も持っていません。ところが、わたしたちはしばしば、自分が刈り取る天使であるかのように「この人は悪い、排除すべきだ」と断罪しようとます。
わたしたちが他者を裁き、排除しようとするとき、それは神の領域を侵し、神の忍耐に割り込む行為です。わたしたちの役割は、今この瞬間、自分を裁判官として立てることではなく、神の慈しみの中で、毒麦と共に生きる苦しみを引き受けながら、麦として実を結ぶことに尽きます。
「敵」
(25)とは悪魔のことであり、その目的は明らかに、麦の生育を妨げ、神の畑を台無しにすることです。それを知りながら、主人が毒麦を即座に抜き取らないのはなぜでしょうか。それは、弱さからではなく、あふれるほどの愛があるからです。「麦まで一緒に抜くかもしれない」
(29)という主人の言葉には、一本の麦も無駄にしたくないという、主の切実な願いが込められています。
わたしたちが「悪を排除したい」と願うとき、それはある意味で正しい正義感かもしれません。しかし、神の正義は、悪を滅ぼすこと以上に、「小さな信仰をいかに守り抜くか」という愛に立脚しています。毒麦を抜こうとすれば、まだ芽生えたばかりの未熟な麦は、その根を深く張ることができず、一緒に引き抜かれてしまうでしょう。主人は、罪がいかに畑にはびころうとも、ただの一人の「良い麦」が傷つくことを避けるのです。
このたとえは、信仰が途中で「麦から毒麦に変わる」といった趣旨の話ではありません。重要なのは、本質的な違いが、収穫の時までは他者の目には判別できないほど「混在している」という現実です。
では、わたしたちが「毒麦」である可能性はあるのでしょうか。ルターは、人間を「同時に義人であり、罪人である」と表現しました。これは、わたしたちキリスト者が、自分の正しさを誇ることができない理由です。
「自分は絶対に良い麦だ」と確信するとき、人は他者を毒麦と見なして排除する毒に陥ります。ルターの言うとおり、わたしたちは神によって義と認められた麦でありながら、なお罪という毒麦をその身に宿しています。わたしたちが毒麦である可能性を考えることは、自分を否定することではなく、神の無条件の赦しなしには自分は「良い麦」であり得ないという真理に辿り着くことなのです。
しかし、「主よ、わたしの中に毒麦があることを知っています。どうぞ、わたしを麦として育ててください」と祈るとき、主の慈しみによって、わたしたちは麦として歩み始めることができるのです。
物語の結びで、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」
(43)と語られます。この世において、彼らは毒麦の陰に隠れ、時には誤解され、踏みつけられてきました。「なぜ正しい者が苦しみ、悪人が栄えるのか」という問いは、古今東西の信仰者が抱えてきた重苦しい悩みです。しかし、収穫の時、彼らは神の光を直接受ける存在として、「本来の姿」を顕現させます。
「太陽のように輝く」とは、神の義が完全に支配し、もはや偽りや誘惑が入り込む余地のない領域で、神の似姿として生きるということです。今、わたしたちは自分が「麦」なのか「毒麦」なのか、確信が持てず、周囲の闇に怯えることもあります。しかし、その輝きは、この世の苦しみや忍耐の果てに、神ご自身の手によって約束されているのです。輝きとは、わたしたち自身の功績ではなく、太陽であるキリストの光を反射する存在へと変えられているという恵みの証しです。
最後に、このたとえはわたしたちに「共生」という福音の課題を突きつけます。
もし畑がきれいな麦だけであったなら、わたしたちは「自分の正しさ」を鼻にかけるようになるかもしれません。しかし、毒麦が混じっているからこそ、わたしたちは謙遜になります。自分の隣にいる人が、自分と同じように罪を抱え、それでも神の憐れみを必要としている存在であることを認める時、そこに「キリストの体」としての共同体が生まれます。
ルターは、キリスト者が隣人の罪を背負い、共に歩むことの重要性を説きました。毒麦を抜こうと焦るのではなく、共に主の刈り入れを待つ者として生きる。それは、自分の隣人が将来、麦として輝くかもしれないという「希望」を、神に預ける生き方です。
このたとえを読んだ後、わたしたちは、自分の周りにいる人々を「この人は敵だ、毒麦だ」と切り捨てるのではなく、「この人もまた、神が刈り取りの時まで忍耐して待っておられる対象である」と見る目を養うよう招かれています。
神の畑であるこの世界で、わたしたちが「毒麦」ではないかという恐れを超えて、主の忍耐の光の中に留まることができますように。そして、いつの日か、主の国でともに太陽のように輝くという約束を信じて、今日という一日を、種を蒔かれた主の愛の中で歩んでいきましょう。
毒麦のたとえは、わたしたちに「待つことの力」を教えてくれます。わたしたちは待つことが苦手です。すぐに結果がほしい、すぐに善悪を決めたいと焦ります。しかし、神は違います。神はわたしたちが成熟するまで、罪の闇の中にいても、なお光の種を蒔き続けているのです。
この物語を心に留めるとき、わたしたちは自分の内にある弱さと、社会にある不条理を、神の主権の中に投げ出すことができます。どうか、ご自身の歩みの中で、神の忍耐があなたを包んでいることを感じてください。あなたがどれほど自分の至らなさに悩み、周りの悪に傷ついても、主はあなたを「わたしの麦」と呼び、刈り入れの時まで、その手から離すことはありません。その確信こそが、荒れ狂うこの世の畑で、わたしたちが平安を保つ唯一の根拠なのです。
わたしたちは、ただ主の畑で、主の時を待てばよいのです。その時まで、主の慈しみに甘え、共に麦として歩み続けましょう。神の御国は、今、わたしたちの忍耐と希望を通して、静かに、しかし確実に実を結び始めているのですから。
祈りましょう。天の父なる神さま。あなたの御子の十字架の愛によって、毒麦の私たちを良い麦へと変えてくださったことを感謝します。どうか、御言葉によって私たちを養い、愛と忍耐の御心を証しできる生活へと導いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。