マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。
杉並聖真ルーテル教会の責任教職は、飯能ルーテル教会の責任教職を兼務しており、奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張します。そのため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
次回予定: 9月13日
1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞きなさい。」
18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
今日はイエスさまが語った「種を蒔く人のたとえ」についてご一緒に考えていきたいと思います。
まず、このたとえの「種を蒔く人」は、イエスさま自身です。「蒔く」という行為そのものが、神の恵みの普遍性を象徴しています。イエスさまは、神の国の福音という「種」を、ありとあらゆる場所に惜しみなく蒔きました。
この箇所は、キリスト教の教えの中でも特に有名で、多くの芸術家たちにもインスピレーションを与えてきました。ミレーの絵画『種をまく人』は、非常に力強い作品です。ミレーは農民の労働に宗教的な尊厳を見出しました。厳しい大地に種を蒔く姿は、どれほど不毛に見える心や状況であっても、神がそこに御言葉を届け続けておられるという希望と重なります。ミレーが描いた大地が荒々しいように、神の愛は、秩序整った礼拝堂の中だけでなく、泥臭い人生の現場や、拒絶の多い社会の片隅にこそ、激しく蒔かれているのです。
ところで、奪い取る者への警戒心と隣人愛をどう両立させるか、どなたも一度は自問されたことでしょう。
マタイの福音書が書かれた当時の初期キリスト教会は、非常に切実な危機に直面していました。個人の心の持ちようという次元を超えて、なぜマタイが「悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」
(19)という表現を選んだのか、当時の背景から紐解いてみましょう。
マタイの教会は「悪い者」を単なる抽象的な悪魔の誘惑とは捉えていませんでした。当時のキリスト教徒たちは、ローマ帝国の迫害という「外からの圧力」だけでなく、コミュニティ内部に侵入する「偽りの教え
(偽預言者や異端)」
(7章15-16)をも強く警戒していました。教会が大切に守り育ててきた御言葉の種を、巧みな言葉でねじ曲げ、奪い去ってしまう存在。それに対する強い緊張感が、この「悪い者」という描写に投影されています。
また、周囲の社会(ユダヤ教指導者や異教徒の隣人)からの「それは間違っている」「そんなものは捨てて帰ってこい」という社会的な圧力が、まさに御言葉を「奪い取る」鳥の役割を果たしていたのです。
ルターは、こうした「奪い取る者」の存在について触れ、内面的な自己省察を強く求めました。ルターにとっての最大の「悪い者」は、教会の外側にいる敵である以上に、「自分自身の不信仰」や「高慢」でした。
私たちが今、この記述から学ぶべきは、隣人を疑い排斥することではなく、「何が真の教え(み言葉)であるかを見極める知性」を養うことです。
そもそも、イエスさまの教える愛は、警戒心で自分を固めることではなく、「奪われるリスクを負ってでも、愛の手を差し出し続けること」を求めています。悪い者を警戒するのではなく、自分の心の中に「種が育つ土壌」を整えること。それこそが、キリスト者が目指すべき姿勢なのです。
マタイ7章12節にある黄金律(「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」
という教え)は、たとえ相手が未熟であったり、悪意を持っているように見えたりしても、こちら側から愛の種を蒔き続ける態度を求めています。警戒心は「自分を守る」ためではなく、「相手の変化を待つ」ための忍耐へと昇華されるべきなのです。
さて、マタイ18章7節の「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」
という厳しい言葉と、このたとえを照らし合わせると、イエスさまが特定の誰かを断罪しようとしているのではないことが見えてきます。
イエスさまが語ったのは、実を結ばなかったことを責めるための裁判ではありません。むしろ、御言葉を聞きながらも、世の誘惑(22節で「世の思い煩いや富の誘惑」
と言い換えられています)や苦難によってそれが摘み取られてしまう悲劇に対する、イエスさまの「深い悲しみ」が込められています。奪い取られる人、つまずく人、実らない人も、イエスさまが愛し、救おうとした対象です。
もし私たちが「実を結ばないからダメだ」と切り捨てるなら、それは種を蒔いた方の心を理解できていません。神は、枯れそうな種にも水を注ぎ続けてくださる方です。マタイ18章12節からの「迷い出た羊」のたとえで、イエスさまは「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」
と語りました。実らない土壌にある者こそが、イエスさまが真っ先に見つけに行こうとする羊なのです。
「道端」「石だらけの所」「茨の間」という状態は、私たちの心の「固定された性質」ではなく、ある特定の時期や状況における「心の姿勢」や「環境」を指しています。そこから「良い土地」へと移る過程は、自分自身の力だけで土を入れ替えるような魔法ではなく、神との対話を通じて心という土壌が「耕される」過程と言えます。その過程において共通しているのは、「耕す主体の転換」です。
私たちは往々にして「自分が良い土地に蒔かれた種とならなければならない」という重圧を感じてしまいがちです。しかし、聖書が示す希望は、神こそが私たちの心を耕す農夫であるということです。このたとえが語られた後、イエスさまは「良い土地」についてこう言及しました。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」
(23)。
ここで重要なのは、「悟る」という受動的な姿勢です。自分の心を無理やり良い土に変えるのではなく、神のみ言葉が自分の心に届いたとき、そのみ言葉に心を「開いておく」こと。これが「良い土地」への変容です。
では、み言葉を悟る人が結んだ実は、その後どうなるのでしょうか。その人の中に留まらずに、その実は「隣人を生かすための糧」となります。
私たちが結ぶ実とは、愛であり、寛容であり、真実です。それはまた、新たな「種」となって、誰かの心に蒔かれていきます。キリストの福音は、個人の中で完結する自己実現とは違って、常に他者との関係性の中で、循環し、広がり続けるものなのです。
マタイ5章16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」
とあるように、実を結ぶことは他者への奉仕として現れます。収穫された実は、自分一人で食べるものではなく、飢えている誰かのために分け与えられるべきものなのです。
私たちは一生を通じて、ある時は道端に、ある時は茨の間に立たされます。しかし、たとえ今は実を結ばず終わってしまったかに見えても、ひとたび蒔かれた種は消えていません。
「良い土地」へ移るとは、一度きりの到達点ではなく、日々、自分の心という土壌が神によって耕されていることを信頼し続ける「継続的なプロセス」です。今、もしあなた自身の心がどこか荒れていると感じるなら、それは決して絶望ではなく、神が次なる「耕し」を準備されている時間なのかもしれません。
今日の話から、みなさんの心に何か一つ、小さな種が蒔かれたなら幸いです。その種を急いで成長させる必要はありません。日々の生活の中で、ゆっくりと芽吹いていくはずだからです。
祈りましょう。天の父なる神さま。良い土地、み言葉の種に実を豊かに結ぶ者にすると約束してくださったことに感謝します。あなたのみ言葉が心に深く根付き、あなたの喜ばれる実を豊かに結ぶことができますよう、私たちをつねに耕し、柔軟な心にしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。