杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

読書会について

主日礼拝の後、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

夕礼拝について

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。

次回: 5月21日

牧師不在の礼拝式について

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

出張予定日: 5月10日

復活のキリストに目が開く

13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

1. 失意の中の歩み

きょうの物語は、エルサレムから約11キロ離れたエマオという村へ向かう二人の弟子から始まります。一人はクレオパという名ですが、もう一人の名は伏せられています。この「名もなき弟子」を、私たち自身と読むこともできます。

彼らの足取りは重く、顔つきは暗かったと記されています。彼らにとってイエスさまは「行いにも言葉にも力のある預言者」(19)でしたが、十字架の死によってその期待は打ち砕かれました。彼らは、イエスさまが「イスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21)と過去形で語ります。

ここで重要なのは、聖書を説明されたにもかかわらず、彼らの目が「遮られていて」(16)イエスさまだと気づかなかったという点です。これは、絶望と固定観念のため目の前の真実を認識できない、霊的な状態を象徴しています。

2. 「なおも先に行こうとされる」イエス

「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」(28)。日が傾き、夜が迫っているにもかかわらず、なぜイエスさまは「なおも先へ行こうと」したのでしょうか。ここに、神と人間との関係における重要な真理が隠されています。

第一は、人間の自由意志への尊重です。イエスさまは伴走者として寄り添いますが、最終的に自分を生活の場(家)に受け入れるかどうかは、弟子の側の決断に委ねます。イエスさまが「先へ行こう」としたのは、彼らの中に「もっとこの方と一緒にいたい」という愛の動機が生じるのを待っていたからです。

第二は、強制ではない「招き」の誘発です。イエスさまが立ち去ろうとする素振りを見せることで、弟子たちは「一緒にお泊まりください」(29)と、自発的に、切実に懇願することになります。

この「無理に引き止める」(同)という行為こそが、冷え切っていた彼らの心に「愛」が戻ってきた証拠です。神は、私たちが自らの意志で「主よ、共にとどまってください」と祈ることを望んでいます。

第三の真理は、限界の状況での出会いです。「日が傾く」とは、人生の黄昏や、希望が潰えようとしている状況を暗示しています。人生の暗闇が迫る時、イエスさまは「さらにその先」におられる方、つまり死や限界を超えて行かれる方です。私たちは、自分の限界(村)で立ち止まろうとしますが、イエスさまは常にその先へと私たちを導こうとしているのです。

3. パンを裂く時に目が開かれる

家に入り、食事の席に着いたとき、主客の立場が逆転します。客であるイエスさまが、もてなす側のように「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30)のです。この一連の動作は、明らかに「最後の晩餐」の再現です。ルカによる福音書において、パンを裂く行為は、イエスさまの自己献身の象徴です。彼らがこの方はイエスさまだと気づいたのは、「他者のために裂かれるパン(命)」というイエスさまの本質を目にした瞬間でした。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31)。

分かった瞬間に姿が見えなくなるというのは、逆説的です。しかしこれは、復活の主がもはや肉体的に特定の場所に留まらず、パンを裂き、分かち合う教会の営みの中に霊的に現存されるようになった、ということを示しています。

4. 「心が燃える」とはどういうことか

イエスさまが去った後、二人の弟子は互いに語ります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32)。「心が燃える」という表現は、単なる一時的な興奮や感情の昂ぶりを指すのではありません。そこには以下の三つの意味が含まれています。

まず、知識が「命」に変わる体験。彼らは聖書(旧約)の知識を持っていましたが、イエスさまの死という現実を前にしては、何の慰めにもなりません。イエスさまが道すがら「メシアは苦しみを受けて栄光に入る」(26)と聖書を解き明かして、初めて断片的な知識が一本の線でつながります。「なぜあのような死を遂げたのか」という疑問が、「あの方の死こそが神の愛の成就だった」という確信へと転じたのです。客観的な情報が、自分の存在を根底から揺さぶる「福音(喜ばしい知らせ)」に変わるとき、心は熱くなります。

次に、絶望の解消とエネルギーの回復。「心が燃える」の対極が「心が冷える、あるいは沈む」状態、すなわち絶望です。エマオへ向かう彼らは、魂の火が消えかかった状態でした。しかし、復活の主との対話を通じて、彼らの中に再び生きる意欲、走る力が湧き上がりました。実際、彼らは食事の途中であったのに、「時を移さず出発し」(33)、夜道をエルサレムへと引き返します。この「即座の行動」を突き動かす内的な衝動こそが、聖霊による「燃える心」です。

さらに、主の現存の確信。キリスト教の信仰において、神を理解することは頭脳の作業ではなく、心の呼応です。パスカ(過越)の神秘、つまり「苦しみを経て命に至る」という神の論理が、自分の全存在でもって受け入れられたとき、人間は内側から照らされます。この「内なる火」は、主の姿が目に見えなくなっても消えることはありません。むしろ、主の姿が見えないからこそ、内なる火が彼らを導く灯し火となったのです。

5. エルサレムへの帰還と宣教

物語の結末で、二人はエルサレムに戻り、他の弟子たちと合流します。そこでは「本当に主は復活して、シモンに現れた」(34)という知らせで沸いていました。

エマオの物語の特徴は、「私たちは主を見た」という報告よりも、「道で起こったこと」と「パンを裂くときにイエスだと分かったこと」が強調される点です。

これは、現代に生きる私たちへの力強いメッセージです。私たちは、2000年前のエルサレムにいた弟子たちのように、肉眼で復活の主を見ることはできません。しかし、聖書が解き明かされるとき(御言葉の礼拝)、パンが裂かれ、分かち合われるとき(聖餐の礼拝)、隣人と共に歩み、もてなし合うとき(愛の実践)、私たちの心は今も「燃え」、復活の主に出会うことができるのです。

イエスさまが「なおも先へ行こうとされた」(28)のは、私たちを立ち止まらせないためです。過去の悲しみや現在の限界に安住せず、復活の命が差し示す「さらに先」の希望へと歩むよう、私たちを優しく、しかし力強く誘っているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子自らが聖書を解き明かし、そして聖餐に招いて分け与えてくださる、この恵みと幸いに感謝します。復活の主イエスさまが共にいてくださることを信じて新たな道を歩み始めた私たちを導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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