杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

牧師不在の礼拝式について

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

次回予定: 7月12日

夕礼拝について

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。

次回予定: 7月16日

読書会について(変更)

主日礼拝後の読書会について、開催を第3日曜日のみに変更いたします。会員主導で30分程度、課題図書はひきつづき三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

次回予定: 7月19日

イエスを受け入れる者

40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

1. はじめに

きょうの福音は、イエスさまが弟子たちを宣教へと送り出す「派遣説教」の締めくくりの部分です。厳しい旅へと向かう弟子たち、そして彼らを迎える人々に向けて、イエスさまが語った温かく、しかし非常に深い真理がここに凝縮されています。一見すると、旅の宣教者を親切に迎え入れなさいという、道徳的な勧めと思うかもしれません。しかし、ここにはキリスト教の信仰の核心に迫るメッセージが隠されています。この三つの節の意味を解き明かしていきましょう。

2. 「受け入れる」とは、具体的にどうすることか

まず、《受け入れる》(40)とは、単に「拒絶しない」とか「大目に見る」という消極的な意味ではありません。それは、「自分の生活の場に招き入れ、心からのもてなしを提供し、その人が運んできたメッセージ(神の言葉)を自分のものとして聴き従う」という積極的な行為を指しています。

当時のユダヤ社会の文脈では、旅の宣教者を家に泊め、食事を出し、足を洗う水を提供し、彼らが語る福音に耳を傾けることが「受け入れる」ことでした。

現代に置き換えるならば、私たちが日々の生活の中で出会う人々、特に教会に集う兄弟姉妹や、私たちの助けを必要としている人々に対して、「自分の時間と空間、そして心を割く」ということです。自分の都合や予定を優先させて他者を閉め出すのではなく、相手のために「席を空ける」こと。これが、実生活における「受け入れる」姿勢です。

ここで、イエスさまが後に18章で語った言葉を思い出してみましょう。《わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである》(18章5)とありました。10章では「弟子たち(宣教者)」を受け入れることでしたが、18章では「一人の子供」にまで広げられています。当時、子供は社会的な地位がなく、無力で、何もお返しができない存在の象徴でした。

つまり、「受け入れる」ことの実生活における究極の姿とは、「自分に対して何のお返しもできないような、社会的に小さく弱い立場の人を、イエス・キリストご自身を迎えるように大切にすること」なのです。相手の社会的地位や自分へのメリットで態度を変えるのではなく、ただ「キリストの目」をもって相手を見つめ、迎え入れること。それこそが、受け入れながら生きる実生活のあり方です。

3. 預言者を預言者として受け入れる意味

次に、41節の《預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける》という言葉について考えましょう。

「〜を〜として受け入れる」という表現が繰り返されています。これは、相手の「本当の身分や役割」を正しく認識して受け入れる、という意味です。

預言者を、ただの「風変わりな旅人」としてではなく、「神の言葉を預かって語る者」として認めて受け入れる。正しい人を、ただの「親切な隣人」としてではなく、「神の御心に従って生きる義人」として敬意を持って受け入れる。それが「〜として受け入れる」ということです。

もし、預言者を単なる物乞いとして扱い、同情心だけでパンを一つ与えたとしたら、それは「預言者として受け入れた」ことにはなりません。彼が携えてきた神の言葉、神の権威を認め、それを重んじるからこそ、預言者として受け入れたことになるのです。

では、現代社会で《預言者を預言者として受け入れる》こととは何でしょうか。現代には、旧約聖書に出てくるような預言者は見られません。しかし、「神の言葉を取り次ぐ者」としての預言者の役割は、現代の教会や社会にも生きています。具体的には、「聖書の御言葉を正しく解き明かし、時に私たちの罪を指摘し、神の愛と正義を語る牧師や宣教者のメッセージに、謙虚に耳を傾けること」がこれに当たります。

さらに、不条理や不正義に対して「それは間違っている」、「神の御心はそこにはない」と、聖書の精神に基づいて声を上げる人々がいます。孤立を恐れずに真実を語る人々の声を、「煙たいもの」として退けるのではなく、神からの警告や促しとして受け止めること。これもまた、現代における「預言者を預言者として受け入れる」重要な姿だと言えるでしょう。

4. 「受け入れる」ことと「神の義」の深い関係

ここで、聖書の重要なテーマである「義(神の義)」と、「受け入れる」ことの関係について整理しておきましょう。

マルティン・ルターは、人間が神の前に「正しい」とされるのは、人間の善い行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのだ、と「信仰義認」を強く主張しました。キリストへの信仰によって罪を赦された信徒は、もはや自分の救いのために善行を積む必要はなく、ただ神への感謝と隣人への愛のために、自由な仕え人として生きるのだと語っています。

このルターの洞察を踏まえると、「受け入れる」ことと「義」の関係が明らかになります。《正しい者を正しい者として受け入れる》とは、相手の持つ神の義、あるいはキリストへの信仰を認め、互いを「主によって結ばれた尊い存在」とすることです。

つまり、「受け入れる」という行為は、私たちが神から一方的に「受け入れられた(義とされた)」ことに対する、感謝の応答なのです。神の義の光の中に生きているからこそ、私たちは他者を色眼鏡で見ず、神の前に正しい者として認め、受け入れることが可能になります。「受け入れる」ことは、神の義が私たちの人間関係の中で具体化された姿そのものなのです。

5. 「報い」とは何か、そして不本意な親切の真価

最後に、42節に登場する《報い》について考えましょう。イエスさまは《冷たい水一杯だけでも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》と言いました。

もし、心の中では「面倒だな」、「本当はやりたくないな」と思いながらも、「報いがもらえるなら、やっておくか」という下心や不本意な気持ちで水を与えたのなら、その行為は聖書のいう「受け入れ」にはなりません。なぜなら、イエスさまは、明確に《わたしの弟子だという理由で》と語っているからです。つまり、「あなたがキリストの弟子だから、キリストへの愛のゆえに、あなたをもてなします」という動機が求められているのです。報いそのものを目的とした取引のような善行は、イエスさまの求める愛の姿ではありません。

ルターは、神からの報酬や天国での地位を「目当て」に行う善行を強く批判しました。それは神を愛さず、自分の利益を愛する「偽善」です。本当のキリスト者の善行とは、湧き出る泉のように、神への感謝から自然にあふれ出るものであるべきです。

では、イエスさまがここで約束している「報い」とは何でしょうか。それは、私たちが現世で得る物質的な豊かさや、他者からの称賛、あるいは天国でのボーナスのようなものではありません。聖書が語る究極の「報い」とは、「神ご自身との豊かな交わり」であり、「キリストと一つにされる喜び」そのものです。

もう一度、40節を見てください。《あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである》とあります。弟子を受け入れる人は、キリストを受け入れる。キリストを受け入れる人は、父なる神を受け入れる。言い換えれば、小さな者に水一杯を与えるというささやかな行為を通して、私たちはなんと神ご自身を我が家に、我が心に迎えるのです。神ご自身が私たちの報いとなってくださる。これこそが、イエスさまの約束した「必ず受ける報い」の正体です。

6. 結び:小さな者への水一杯から始まる歩み

今日の箇所を振り返ると、イエスさまの言葉は私たちに大きな慰めと、同時に確かな課題を与えてくれています。

イエスさまが求めているのは、歴史に残るような偉大な偉業や、莫大な寄付ではありません。「冷たい水一杯」という、誰もができる、日常の小さな親切です。キリストが私たちのためにご自身の命をすてたからこそ、私たちは他者のために水一杯を差し出す自由を得ました。「キリストのゆえに」という確かな動機と愛があるならば、その小さな行為は天に届き、神ご自身を迎え入れるという奇跡へと変えられます。この御言葉を胸に、今日から新しい一歩を踏み出しましょう。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたからいただいた私たちの尊い役割と光栄を改めて覚え、感謝いたします。欠けの多い小さな器でしかない私たちを御言葉と御霊によって清め、あなたのご栄光と人々の救いのためにお用いください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン

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