マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

主日礼拝の後、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。
次回: 6月18日

杉並聖真ルーテル教会の責任教職(牧師)は、本年度も飯能ルーテル教会の責任教職を兼務します。奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張するため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。
出張予定日: 7月12日
6キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。 7ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。 8しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。 9わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
きょうの箇所には、福音の純粋性を守るためのパウロの厳しい姿勢が凝縮されています。現代の多様性を尊ぶ価値観から見れば、パウロの言葉は独善的、あるいは不寛容に映るかもしれません。しかし、その真意を探ることで、キリスト教の本質と、他宗教や異文化とどう向き合うべきかという問いへの深い洞察が得られます。
ここでパウロが「あきれ果てて」
いるのは、ガラテヤの信徒たちが「キリストの恵み」という土台から、あっさりと「ほかの福音」へ移ろうとしている点です。当時、ガラテヤの教会には「イエスを信じるだけでなく、ユダヤ教の律法(割礼など)も守らなければ救われない」と説く人々(割礼派)が入り込んでいました。パウロにとって、恵みに「条件」を付け加えることは、福音そのものの破壊を意味したのです。
パウロはそこに論理的な釘を刺します。「ほかの福音」と記しながら、即座に「そんなものは存在しない」と否定します。福音とは「良い知らせ」ですが、神の無条件の愛に基づく知らせは唯一無二であり、そこに人間の功績や条件を混ぜた瞬間に、それは「福音」ではなくなるからです。
ここでいわれている「惑わし」
とは、完全に嘘を語ることではなく、「真理に少しの不純物を混ぜて、その本質を根底から変質させること」を指しています。
パウロは天使さえも引き合いに出し、福音をゆがめる者は誰であっても「呪われるべき(アナテマ)」だと繰り返します。「アナテマ」とは、神に滅ぼされるべきもの、聖所から排除されるべきものを意味する最も重い言葉です。
この激しさは、パウロが自身の権威を守るためではなく、「救いの唯一の道であるキリストの十字架」が、人間の教えによって無効化されることを恐れたために発せられた悲鳴に近い情熱です。
では、多様性の時代において、知識として、または歩み寄りとして他の宗教を知ろうとすることも罪になるのでしょうか。
結論から言えば、「他宗教を知ること自体は罪ではなく、むしろキリスト者としての愛の業(わざ)になり得る」というのが、聖書全体およびこの箇所の文脈から導き出される答えです。
私たちがまず見極めるべきなのが、「福音の変質」と「外的な知識」の違いです。パウロが呪ったのは「他の宗教を学ぶ人々」ではなく、「キリスト教の内部にいて、福音をゆがめ、信徒の信仰を根底から破壊しようとする偽教師たち」です。つまり、信仰の純度を内側から崩す行為です。他方、他者の信条を理解しようとすることは「知的な誠実さ」であり、隣人を愛するための一歩です。相手を「理解できない得体の知れない存在」として退けずに、その背景にある価値観を知ることは、対話の前提となります。
イエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」
(マタイ22章39)と教えました。隣人が大切にしている信仰や文化を知ろうとすることは、その人の人格を尊重することに繋がります。他宗教を知ることは、自分の信仰を捨てることでも、混ぜ合わせることでもありません。むしろ、他者の鏡を通して自分の信仰の輪郭をより鮮明にすることに役立ちます。
これらを前提として、私たちは「知ることと乗り換えることの境界線」を引けるようになります。パウロが6節で叱責したのは、信徒たちが「乗り換えようとしている」
(転向している)点です。知識を得、歩み寄ることは、相手を理解し、平和を築くための努力であり、推奨されるべき行為です。対して、「イエスもいいけど、こっちの修行も救いに必要だ」と福音に何かを付け加えることは、パウロが警告した「別の福音」です。
キリスト教の独自性(キリストのみによる救い)をしっかりと保持しながら、他者への寛容さと敬意を持って接することは、矛盾ではありません。むしろ、自分の立脚点が揺るぎないからこそ、他者の異なる価値観を冷静に、かつ温かく受け止めることができるのです。
きょうの箇所は、私たちに「妥協してはならない一線」を教えています。それは、私たちの救いが100%神の恵みによるものであり、人間の努力や付加的な儀式によるものではないという点です。この一点において、パウロは一切の譲歩を許しませんでした。しかし、その「真理に対する厳格さ」は、他者に対する「人格的な不寛容」とは異なります。
ここで、もう一つの問いに向き合いましょう。自分を律し、他者もそうであるようにと正そうとすることは、間違った行為なのでしょうか。
これは、キリスト教信仰において最も葛藤が生じる問題かもしれません。自分が大切にする真理だからこそ、それを知らない他者や、間違った方向に進んでいるように見える他者を「正してあげたい」と思うのは、自然な心理です。しかし、聖書、特に福音書におけるイエスさまの姿を見ると、「自分を律すること」と「他者を裁くこと」の間には、明確な違いがあることが分かります。
聖書が教える「律する」という行為は、常に「自分自身」に向けられています。一方で、他者を正そうとする熱意が、相手の尊厳を軽視した「裁き」に変わることを、イエスさまは強く戒めました。「まず自分の目から丸太を取り除け」
(マタイ7章5)。自分が神の前にいかに不完全であるかを自覚していない者が、他者の欠点を正そうとするとき、それは「愛」ではなく「支配」や「自己証明」にすり替わるからです。
パウロがガラテヤ書で示した「真理に対する厳格さ」は、「救いは人間の努力ではなく、神の愛(恵み)による」という真理を守るためのものでした。つまり、「人間は誰も、自分の正しさで救われるほど立派ではない」という真理です。これに対し、他者を不寛容に正そうとする姿勢は、「私は正しい道を知っている、それに従わないお前は劣っている」という、パウロが否定した「人間の誇り」に基づきます。
イエスさまは真理を曲げませんでしたが、他者に対しては常に「人格的な受容」が先行していました。相手の「人格」を100%肯定した上で、「生き方(真理)」が変えられるプロセスを待ったのです。
では、他者が間違っていると感じたとき、何も言わずに放置すべきなのでしょうか。聖書は「愛に根ざして真理を語る」
(エフェソ4章15)ことを勧めています。その要件は、動機が「愛」であるか、自分の弱さを認めているか、そして相手の自由意志を尊重しているか、です。
「自分を律する」ことは非常に尊い信仰の姿です。しかし、他者に対しては、イエスさまがそうであったように「真理については妥協しないが、人格については無限に寛容である」という姿勢を目指すべきでしょう。
他者を正そうとする熱量を、「他者のために祈り、仕え、理解しようとする」熱量に変換することが、福音書が描く愛の形です。「正しさ」で人を裁くのではなく、「愛」によって人が自ら真理に惹きつけられるように生きる。それが、この時代におけるキリスト者の洗練された「歩み寄り」ではないでしょうか。
私たちには、次の三つのバランスを保つことが求められています。一つ、自分が信じる「恵みの福音」を正しく理解し、それを唯一の希望とする。つまり確信を持つこと。二つ、異なる信仰や主張を持つ他者の声を、偏見を持たずに聴く。神が愛しておられる「隣人」として尊重するため敬意を持って聴くこと。三つ、誘惑と捉えるのではなく、むしろ「福音が届くべき世界」をより深く理解するため、他者と対話すること。
この複雑な世界の中で、キリストの愛をどう体現するかを模索しつつ、誠実に歩みましょう。
祈りましょう。父なる神さま。御子イエスさまは、他人に厳しく自分に甘い私たちをも受け入れ、福音の真理に導いてくださいました。私たちも自分を律し、謙遜に隣人を愛することができますよう、信仰の歩みを導いてください。救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン