杉並聖真ルーテル教会

マルチン・ルターの宗教改革の流れを受け継ぐプロテスタントのキリスト教会です。

直近の礼拝式

集会予定
8月23日(日) 10時30分
聖霊降臨後第13主日
マタイ16章13~20 岩の上に建つ教会
8月30日(日) 10時30分
聖霊降臨後第14主日
マタイ16章21~28 イエス 死と復活を予告する

牧師不在の礼拝式について

お知らせ

杉並聖真ルーテル教会の責任教職は、飯能ルーテル教会の責任教職を兼務しており、奇数月の第2日曜日に飯能教会に出張します。そのため、当日の杉並教会の礼拝式は信徒のみで守ります。

次回予定: 9月13日

夕礼拝について

お知らせ

毎月第3木曜日に夕礼拝を行っています。開式時刻は19時です。日課は『ガラテヤの信徒への手紙』から要所を選んでいます。

次回予定: 9月17日

読書会について

お知らせ

第3日曜日の主日礼拝後に、30分程度の読書会を会員主導で行っています。課題図書は、三浦綾子氏の『新約聖書入門』です。

次回予定: 9月20日

律法から恵みへ

説教

15わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 16けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 17もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。 18もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。 19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 20生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 21わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

1. 使徒たちの共通理解か、パウロ独自の悟りか

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(16)。この衝撃的な宣言は、パウロ一人の個人的な見解ではありません。

しかし、他の使徒たちが当初からこの「論理」を明確な言葉で宣言していたとは言えません。エルサレムの使徒たちも、もちろんイエス・キリストによる救いを信じていました。しかし彼らは、ユダヤ教の伝統の中に生きる人々として、律法の遵守とキリストへの信仰を、どこか地続きのものとして捉えていたのです。

パウロの卓越したところは、福音の「爆発力」を論理的に解明し、律法という枠組みを完全に突き破った点です。彼は他の使徒たちが経験していた救いの実体験を、神学的な普遍的原理として言語化しました。つまり、彼は福音の本質を最も鋭く突き詰め、それを異邦人伝道の現場において磨き上げたのです。

2. 盲目から開眼へ:パウロが「真理」に突き当たった経緯

かつてパウロは、誰よりも律法に対して熱心でした。「律法の義においては非のうちどころのない者」(フィリピ3章6)と自負し、律法を守り抜くことこそが神への忠誠であると信じきっていました。しかし、その熱心さは皮肉にも、神を愛するあまりに「神を信じる者たち」を迫害するという罪の極みへと彼を突き動かします。

ダマスコの途上でキリストに出会ったとき(使徒9章)、パウロの全存在が砕かれました。彼が積み上げてきた「律法の実行」という誇り高い塔は、復活のキリストという圧倒的な光の前で砂のように崩れ去ったのです。「私が守ろうとしていた律法は、実は私の内なる罪を炙り出し、私を殺していたのではないか」。

彼は悟りました。自分がどれほど努力しても、神の義には到底届かない。しかし、神はその絶望の淵にいる私を、一方的に愛してくださった。私の行いではなく、キリストが私という罪人のために、私に代わって死んでくださったという事実だけが、私を「義」とする。この衝撃は、パウロの全生涯を塗り替えました。彼が語る信仰義認とは、机上の空論ではなく、かつての誇りをすべて「塵あくた」(フィリピ3章8)と見なすまで追い詰められた人間の、魂の叫びなのです。

3. マルティン・ルター:苦闘の果てに掴んだ「自由」

このパウロの叫びを、1500年の時を超えて再びこの世界に響かせたのがマルティン・ルターです。

ルターもまた、パウロと同じく「どうすれば神から義とされるのか」という切実な問いに押しつぶされそうになっていました。修道院の壁に囲まれ、日夜祈り、断食し、厳格な規律を守り抜こうとした彼が辿り着いた結論は、「神は恐ろしい裁判官である」という絶望でした。どんなに善行を積んでも、心の底から湧き上がる罪の意識は消えない。ルターは自らの限界に、深く、苦しく直面していました。

しかし、聖書を読み込み、特にパウロの書簡に没入する中で、彼は稲妻に打たれたような発見をします。神が提示しているのは「行いへの報い」ではなく、「贈り物としての義」だったのです。ルターにとっての信仰義認は、自分自身の力ではどうにもならない人間の無力さを認め、ただキリストの恵みにすべてを委ねるという、命を懸けた大転換でした。

4.「律法のために死んだ」という真実の逆説

パウロは19節でこう言います。「わたしは、神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死にました」

私たちは普通、「何かを守り、正しく生きるため」にルール(律法)を必要とします。しかしパウロは、「律法の鎖から自由になることこそが、本当に神に向かって生きる唯一の道である」と逆のことを語っています。

なぜなら、律法という枠組みの中にいる限り、私たちは絶えず「自分がそれを守れているか」を監視し続けるからです。パウロが語る「律法に対して死ぬ」とは、自分で自分を採点するのをやめることです。そのとき、初めて私たちは、神が無条件に与えてくださる純粋な「恵み」に気づくことができます。

5. 信仰という「受け取る力」

16節に遡ります。「わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした」

ここで注目したいのは、信仰の「動機」です。大切なのは、信仰は「何かを得るための手段」ではないということです。もし信仰さえもが、「義とされるという報酬を得るための、自分の業績」になってしまったら、それは前段で触れた「律法の鎖」に再び繋がれることと同じです。

パウロが語る信仰とは、「何も差し出せるものがない空っぽの両手を、ただ開くこと」です。私たちは、神に対して何かを差し出すのではなく、神が差し出してくださったキリストという贈り物を、ただ「受け取る」。この受け取るという行為自体が、私たちの側にある唯一の、しかし最も謙虚な応答なのです。

6. 「キリストと共に十字架につけられた」とはどういう意味か

19節の続きに進みましょう。パウロの言う「キリストと共に十字架につけられています」という言葉は、私たちの日常を根底から変える響きを持っています。

これは、かつての「世間からどう見られるか」「何ができるか」に縛られていた古い自分が、キリストの死において決定的に殺されたことを意味します。十字架という処刑場で、私たちは、自分の功績を誇る権利を捨てました。

パウロの言葉を真摯に受け止めるなら、今この時も私たちは、十字架につけられているのです。「自分で自分を救わなければならない」という重圧に対して、私たちは日々十字架の上で死に、新しい命を生きる者として、この十字架の恵みを噛み締めるのです。

7. 「神の恵みを無にしない」ということ

21節でパウロが投げかける鋭い問いに注目しましょう。「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、義が律法によって得られるのであれば、キリストの死は無意味になってしまいます」

これは私たちのプライドを打ち砕く、非常に厳しい言葉です。私たちが「自分の頑張りでどうにかしようと」と必死になればなるほど、実は「キリストが十字架で死ぬ必要はなかった」と言うのと同じになるのです。しかし、裏を返せば、このことは「あなたの人生を救うために、キリストの死はそれほどまでに必要不可欠で、価値あるものだったのだ」という、究極の肯定でもあります。

私たちは、「何かをしなければ神は喜ばない」と考えがちです。でも、パウロはここでこう告げています。「あなたの人生のすべての帳尻は、十字架で合わせられた。だから、もう自分という重荷を背負って苦しむのは終わりにして、ただその恵みに乗って生きなさい」。

この「あえて何もしない(自力での救いをあきらめる)」という自由こそが、ガラテヤの信徒への手紙が現代の私たちに突きつける、最も深く、最も優しいメッセージなのです。

8. 私たちは今、生きているのではない

最後に一つ、大切なことをお伝えします。パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(20)と語りました。

私たちが直面する困難、迷い、弱さ。それらを抱えるあなたは独りではありません。あなたが何かを成し遂げようと焦るその場所で、すでにキリストがあなたと共に生きておられます。何かを足そうとすることはありません。あなたはすでに、十字架の愛によって、神の目にかけがえのない存在とされているのです。この揺るぎない事実に頼んで、新たな一歩を踏み出しましょう。

信仰義認という言葉は少し難しく聞こえますが、結局のところ「私たちは、ありのままで愛されている」という、シンプルで力強い真実に集約されるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが私たちのためにしてくださった十字架の出来事に感謝します。また、復活のイエスさまが、一緒に生きようと呼びかけて、神の愛を教え続けてくださることに感謝します。あなたの愛を信じる信仰を与えてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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